コロナの影響でほとんどお家タイムとなり、勉強かゲームくらいしかすることがなく、時間を持て余している今日この頃、ゼミの研究の中で私は自動車について調べるタイミングがあったのでそのことについてちょっとお話ししたいと思います。今回のテーマは「D A T S U N」です。

明治大正時代、日本には外車ばかりが街を走っていました。このような自動車背景の中、鮎川義介や橋本増治郎をはじめとする事業家は自動車を作り始め、今の日本自動車産業の基盤を作っていきました。

鮎川は東京帝京大学(現東京大学)を卒業後に大卒の学歴を隠し渡米。そこで鋳造の技術を会得し、帰国後の1910年に戸畑鋳物を設立し、翌年の1911年には、橋本を中心に設立された快進社は自動車の国産化を目指し、国内自動車産業を開始しました。この快進社に出資した田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字を取って名付けられたのがダット自動車です。1919年、快進社自動車工場は日本初の単塊鋳造4気筒エンジンを積んだダット41型乗用車を発売。その後快進社は販売強化の為ダット自動車紹介を設立し、翌年にはアメリカのゴルハムが設立した実用自動車製造と合併。ダット自動車商会(株)となっていきました。

1931年、自動車部品を製造していた戸畑鋳物は自動車工業への参入を考えダット自動車製造を傘下にし、翌年には小型乗用車生産1号車に成功。それを「ダットソン」と名付けました。ですが、ソンでは損を連想させてしまうということから、明るい未来を願う太陽(sun)と、田・青山・竹内の息子(son)という意味から「ダットサン」に名称を変更し売り出していきます。

戸畑鋳物は1933年3月に自動車部を設立し本格的な自動車生産に乗り出しました。10月には約2万坪の土地を横浜市から買い取り、鮎川が設立した持株会社、日本産業と戸畑鋳物を出資して12月に自動車製造(株)を設立し、翌年の6月に行われた株主総会にて、日本産業の全面出資となり社名を今現在の日産自動車(株)に変更し現在に至ります。
1981年に当時の日産社長がダットサンを順次廃止するとし、ダットサンは一旦市場から姿を消すこととなりましたが、約30年後の2012年に新興国向けの車として復活します。このあたらしくなったダットサンはインドやインドネシアを筆頭にグローバルに展開していくことになりました。

今あるダットサンのモデルとしてクロスオーバーの「クロス」、5ドア・ハッチバックの「ミドー」、4ドア・セダンの「オンドー」、インド市場ではコンパクトカーの「ダットサン・ゴー」、ミニバンの「ゴー+」などがあり日本ではなかなか見かけないものとなっていますが海外では需要があるようです。