東京では7月10日、新型コロナウイルスの感染者数が過去最多の243人を記録しました。このご時世、感染拡大が恐怖で外出したくてもしづらい状況です。そんな中、ながしまゼミではオンラインを駆使して研究を進めています。今回は、地域産業研究のなかで発見した15年間連続「住みたいまちNo,1」に選抜されたまちと、そのまちが位置する市の歴史を書いていこうと思います。

吉祥寺は、「住みたいまちランキング」で15年連続1位を獲得しています。(株式会社長谷工エアーベースト調べ)。武蔵野市東端に位置しており、JR中央線と京王井の頭線が通る回遊性の高いまちとして知られています。吉祥寺を所有しており、都市開発も進んでいる武蔵野市ですが、1889年(明治22年)は人口3,000人の武蔵野村でした。この村では人口の9割が農業を営んでいたそうです。(今の武蔵野市の姿からは考えられない!)

同時期の1899年 (明治32年)には中央線の元である甲武鉄道が作られ、同じ年には今の吉祥寺である吉祥寺停車場が作られました。この甲武鉄道は都心とつながっていたため、1923年 (大正12年)に起きた関東大震災の時、都心から武蔵野村へ被災者が移住。人口が増加したため、武蔵野村から武蔵野町へレベルアップしました。この時期から農業を営む人が減っていき、世帯数の半分が会社に勤めるようになったようです。

1945年(昭和20年)終戦を迎え、武蔵野町は官公署の誘致に力を入れました。その結果人口がさらに増加し、1947年(昭和22年)11月3日、武蔵野町は市制を施行して武蔵野市が誕生しました。このときの人口は63,486人だったそうです。

戦後の昭和30年代、日本は高度成長期であったため武蔵野市も都市化が進み、武蔵境駅南口広場や、吉祥寺駅周辺の開発をはじめました。このころから、いまの吉祥寺の姿にかなり近づいていきます。

昭和40年代には以下の商業施設が建てられました。

こうして吉祥寺周辺が発展していきました。

さらに1971年(昭和46年)「武蔵野市基本構想・長期計画」では、市民で武蔵野のまちををつくろうという市政と市民一体化の計画が施されました。この計画が施されたことによって、市民参加の武蔵野市が徐々に完成。吉祥寺が住みたいまちNo,1として人気が高い理由に、網羅性のある商業施設と緑豊かな井の頭公園の調和が挙げられますが、市政が市民と対話を続けたことも一因ではないでしょうか。

参考文献
武蔵野市HP
http://www.city.musashino.lg.jp/index.html

長谷工
https://www.haseko-urbest.com/press/pdf/20190627_hub.pdf